【米津玄師/懺悔の街】の歌詞の意味を徹底解釈 | 陰鬱な空気が漂う街はどこか儚い
編集: ひいらぎ最終更新: 2020/9/19
懺悔の街という曲名の意味を考察
一つの「街」が「懺悔」で満ちていたら、どろどろと陰鬱な空気が漂う場所になるのでしょうか。あるいは汚れた中にも美徳の点在した場所になるのでしょうか。いずれにせよ、住み心地は悪そうです。
しかし、よく考えると「懺悔の街」はどの時代どの場所においても普遍的な共同体であることに気付きます。
自我が発達していない状態で亡くなった場合は別として、たった一つの悔いもなく人生を終えられる人などいないはずですから。だからこそ人は宗教を作り、救いを求めてきたのでしょう。
とは言え、祈りで苦痛を癒すか、自己の精神に向き合って改善を望むかの意思決定は個人に委ねられます。後者を取る人にとって、信仰心に溢れた「懺悔の街」は却って忌むべき場所かもしれません。
懺悔の街の歌詞の意味を徹底解釈
1番
いつの日か気がついたら 作り笑いが上手くなりました
街の角を曲がりくねって 繰り返してここまで来ました
どの角でどの往来で間違えたんだ
ずっと前の落とし物を探し回って
解釈気がついたら作り笑いが上手くなっていました。
街の角を曲がりくねり、繰り返し今に至ります。
どの角、どの往来で間違えたのだろう。
ずっと前の落とし物がまだ見つけられない。
主人公の懺悔が綴られています。
丁寧語の部分には聞き手があり、つまり口に出して語った言葉で、そうでない部分は主人公自身に向けた心中の呟きであるように思われます。悔い改めるために罪を告白する行為のはずが、より精神的で重要な言葉は白状していません。
主人公の信仰に対する懐疑が伺えます。
「作り笑いが上手くな」ることは、純粋さを捨てて小賢しくなることです。円滑な人間関係を築く上では、時に本心を隠して一芝居打つことも必要です。
現実的な大人は難なくそれを受け入れるのでしょうが、人によっては少し難しい話です。子供や素直な人、嘘が嫌いな人は特に、表情筋を動かしながら口の中では苦味を禁じ得ないでしょう。
「街」は人々の生活のために作られた場所です。そこに暮らす人々の人生は、苦悩も努力も後悔も含めて「街」と共にあります。
「角」は方向転換を行う場所です。主人公は何度も進路を変えるうち、いつの間にか何かを「間違え」「落とし」てしまったと言っています。「気がついたら」失っていた純心と同様、その「落とし物」を彼はまだ取り戻せていません。
いつの日か気がついたら 泣くことも少なくなりました
生まれてこのかた僕は この街のなか歩き回りました
あの路地もあの公園も小さくなって
袖の足りない服をまだ着つづけている
解釈気がついたら泣くことが減っていました。
生まれてからずっと僕はこの街で暮らしてきました。
見慣れた路地も公園も今では小さくなったのに
袖の足りなくなった服をまだ着つづけている。
「泣く」機会が減るのも、「作り笑い」と同じく子供が大人に育った証拠と言えます。精神的に強くなったと考えることができますが、見方によっては、何に対しても期待しなくなった、涙を流す程一生懸命になれることがなくなった等とも捉えることができます。
主人公は「生まれてこのかた」「この街のなか」で生きてきました。「歩き回りました」と言っているのは、無垢な探求心の表れでしょうか、それとも迷っているのでしょうか。
子供の頃は大きく広く見えた場所が、成長に従って「小さくなって」きたようですが、「袖の足りない服」を適当な物と取り換えていないことから、本質的な部分は変化しておらず子供の心がまだ残っていると解釈できます。
聖者の行進が 讃美歌と祈りが
この街を包帯でくるんで
癒えるのを待っている
僕は悔やみ続けている
解釈人々の作った神聖なものたちが
この街を包んで
癒そうとしている。
僕は悔やみ続けている。
「聖者の行進」も「讃美歌と祈り」も人為的に作られ行われるものです。「僕」だけでなく、「この街」に住む多くの人々が「悔やみ」や痛みを抱えています。彼らは信仰に頼って心の傷を「癒」そうとしているのです。
「街」と一緒に「包帯でくる」まれているはずの「僕」ですが、彼は積極的に信仰の輪に加わっているのでしょうか。「包帯」を拒絶するでもなく、しかし「祈り」を捧げるでもなく、ただ「悔やみ続けている」様子からは、神より自意識に対する訴えが強く感じられます。
2番
いつの日か気がついたら 遠くまでが見えなくなりました
街頭のあかりが弾けて 花火みたいなふうに見えました
今誰かの心の中見たいくせに
ちょっと先の看板の文字すら見えない
解釈気がついたら視野が狭くなっていました。
街頭のあかりが花火みたいに弾けて見えました。
誰かの心を見たいと願うくせに
ちょっと先の看板の文字すら見えない。
単純に視力の話をしているようにも思えますが、深読みすることも可能です。
子供は無邪気に想像力を働かせ、無限に夢を思い描くことができます。対して大人は現実に則った思考を好みます。経験を重ねることで広がる視野もありますが、主人公はそれよりも、経験によって制限されてしまった部分を気にしているようです。
「街頭のあかり」は家々の窓から漏れる光のことでしょうか、あるいは頭上の天体でしょうか。もしかしたら本物の「花火」かもしれません。正体は掴めませんが、主人公はその「あかりが弾け」る様に鮮烈なイメージを覚えたようです。
彼は感覚を他者と共有することに苦手意識を感じているのかもしれません。自分は他者を理解できる、相手は自分を理解してくれるとの信頼があれば、わざわざ「誰かの心の中」を覗く必要などないはずです。
「花火」のような視覚イメージを上手に伝えることのできない彼は、「ちょっと先の看板の文字」つまり他者からの些細なメッセージを読み取ることもできない、と嘆いているように思えます。
とある日の待合室で 女の人と一緒になりました
美しく笑う人で どんな言葉も尽くせませんが
同じようにこの街で生きてるのに
そう思うと恥ずかしくて たまらなくて
解釈ある日、待合室で女の人と一緒になりました。
美しく笑う人でした。どんな言葉でも表せないのですが
同じようにこの街で生きてるのに、
そう思うと恥ずかしくてたまらなくなりました。
「待合室」で主人公と「女の人」は何を待っていたのでしょうか。明確にはされていませんが、先に「癒えるのを待っている」と言う歌詞があったことを考えると、そこが病院の「待合室」であるように思われます。
すると「女の人」も「癒」しを必要としている人物のはずです。
しかし、主人公は彼女に畏敬の念を抱いています。救済を神に頼る「この街」に彼と同じく「生きて」いながら、「美しく笑う」「女の人」を見て、彼は自分の矮小さを痛感したようです。彼女との出会いは主人公にとって「癒」しになるのでしょうか、新たな傷を負わせただけでしょうか。
天使の遊戯が 女神の息が
この街に水をもたらして
癒えるのを待っている
僕は悔やみ続けている
解釈人々の想う神聖なものたちが
この街を清めて
癒そうとしている。
僕は悔やみ続けている。
「天使の遊戯」と「女神の息」は、敬虔な信徒にとっては現実の一部かもしれませんが、あくまでも想像の産物です。「水」は生活に必要不可欠な恵みであると同時に、傷を洗うにも使われるので、ここでは浄化を表していると解釈できます。
周囲の人々が信仰に縋るのを傍に一人「悔やみ続けている」「僕」ですから、「女の人」との一幕で受けた傷も、いつか人格に取り込んでいくことができるかもしれません。
聖者の行進が 讃美歌と祈りが
この街を包帯でくるんで
癒えるのを待っている
僕は悔やみ続けている
解釈人々の作った神聖なものたちが
この街を包んで
癒そうとしている。
僕は悔やみ続けている。
一度解釈したので割愛します。
天使の遊戯が 女神の息が
この街に水をもたらして
癒えるのを待っている
僕は悔やみ続けている
解釈人々の想う神聖なものたちが
この街を清めて
癒そうとしている。
僕は悔やみ続けている。
一度解釈したので割愛します。
それでも明日は来る
解釈それでも日々は続く。
人がどんなに思い悩もうと、時間はそれを無視するように流れ続けます。
神も時の流れを止める助けはしてくれず、「悔やみ続けている」「僕」にも痛々しい「街」にも、「明日は来る」のです。「気がついたら」後悔している日々は否応なく続きます。