【ヨルシカ/歩く】の歌詞の意味を徹底解釈 | エイミーの旅の途中を描いた作品
編集: ひいらぎ最終更新: 2020/9/19
歩くという曲名の意味を考察
前作のアルバム『だから僕は音楽をやめた』は音楽と自己のアイデンティティに悩む男性エイミーについての物語が紡がれています。
しかしエイミーという男性は自身の作曲活動の苦悩の末に自ら命を絶ってしまいます。
そして、彼の死の真相を知るべく、エイミーが旅をした場所をエルマという女性が訪れ、その先々で作曲をして歌った歌が『エルマ』というアルバムに収録されています。
「君が旅した街を歩く」という歌詞から、まだ旅の中腹で、まだまだ旅は続くという意味で「歩く」というタイトルとなっているのでしょう。
歩くの歌詞の意味を徹底解釈
1番
今日、死んでいくような
そんな感覚があった
ただ明日を待って
流る季節を見下ろした
私の日常は死んでいくような感覚だった。
ただ何もせずに明日が来るのを待ちながら、流れていく季節を見送っていた。
親しい仲であったエイミーという男性を失ってしまいました。エイミーがいなくなってしまった理由もわからず、その喪失感から無為に毎日を過ごしていました。
そしてエイミーが残した手紙を頼りに、エルマは彼の足跡を辿るための旅に出る動機を語った部分です。
どうせならって思うよ
もう随分遠くに来た
何も知らない振りは終わりにしよう
どうせこんなに遠くへ来たからには、何も知らない振りはやめて知りたくないこともきちんと知るために現実と向き合おう。
エイミーの足跡を辿りながら旅をして遠くまで来ました。
旅をすることで心のどこかにエイミーと会えるかも知れないという期待があったかも知れません。
しかし、実はエルマはエイミーがどの様な最期を辿ったのかを知っており、知らない振りをしてはいられない。ちゃんと現実と向き合おうという覚悟と共に旅を続けています。
確かめるように石畳を歩いた
俯きながら行く 何も見えないように
足元を確かめるように一歩ずつ石畳を歩いた。
本当のことを見るのが怖いから俯きながら。
それでもやはり現実と向き合ってそれを認めてしまうのは怖いと感じているのでしょう。それ故に、前を向いて景色を見ながら歩くのではなくただ自分の歩く足元の石畳を見ながら歩いています。
覚悟を持って旅に臨んではいるものの、やはり現実を受け入れることに対して覚悟が揺れているエルマの心情が伺えます。
君の旅した街を歩く
訳もないのに口を出てく
昨日まで僕は眠ってた
何も知らずにただ生きていたんだ
それだけなんだ
君が旅をしながら訪れた街を歩いてる。
それと同時に理由もないのに勝手に歌が出来て口から出てくる。
昨日まで僕は何もせずにただ眠っていただけで、何も知ろうともせずにただ生きているだけだった。
それだけなんだ。
エイミーが辿った足跡をエルマが辿る中で訪れる先々で出来上がった曲を集めて『エルマ』というアルバムになっています。
エイミーが訪れた街を訪れながら、エイミーが何を感じてどの様な最期を迎えたのかということを知るためにエルマは曲を作りながら旅を続け歌っています。
昨日までは何も知らずにただ眠っていただけで、ただ生きているだけだったエルマですが、こうして行く先々で「曲を作る」という旅の目的を見つけ歩き出します。
2番
今日、生きてるような
そんな錯覚があった
妄想でもいいんだ
君がいてくれたらいいや
今日、君が生きている様な錯覚をした。
妄想の中でもいいから君がいてくれたらいいや。
君が辿った街を歩き曲を作ることでエイミーが生きているような感覚がありました。
しかしそれは錯覚のようなもので現実ではありませんでした。
そんな妄想でもいいからエイミーがいてくれたらそれでいいとエルマは思います。
悲しいような歌ばかり書く
頬を伝え花緑青
本当は全部を知っているんだ
悲しいような歌ばかりを書いている。
頬を伝っていく花緑青。
本当は全部を知っているんだ。
エルマが書き上げる歌は、いなくなったエイミーを想うあまり悲しい曲ばかりです。
花緑青(はなろくしょう)とは毒性のある人工染料で、ヨルシカの他の作品にも度々登場しますが、エイミーはこの花緑青を服毒し命を絶っていました。
エルマはエイミーが自殺してしまったことを認めたくない気持ちから知らない振りをしていましたが、本当は既にエイミーが自らの意思で命を絶ったという事実を知っていたのでした。
夏の終わりだった 流れる雲を読んで
顔上げながら行く街は想い出の中
夏の終わりのことだった。
流れる雲を見上げながら歩いている街は想い出であふれている。
エイミーが命を絶ったのは『だから僕は音楽を辞めた』というアルバムに付属していた「エルマに向けた手紙」より8月25日、すなわち夏の終わりごろと考えられます。
エイミーが命を絶ってから何年が経っているのかはわかりませんが、同じ季節が巡ってきたことで彼のことを思い出します。
君の言葉を食べて動く
僕の口には何が見える
今でもこの眼は眠ってる
何も見えずに君を見てる
彷徨うように
君が残した言葉を食べて僕は動いている。
僕の口から出てくる歌はどんな風に聞こえる?
今でもこの眼はだけは眠っているように他のものは見えていない。
ただ彷徨うように君だけを見つめている。
作詞・作曲を手掛けるn-bunaのインタビューによると、アルバム『だから僕は音楽を辞めた』及び『エルマ』の2枚のアルバムは、戯曲『サロメ』の作者として有名なオスカー・ワイルドの言葉「芸術は人生を模倣する」という言葉を体現したと語っています。
エイミーの「模倣される側」とエルマの「模倣する側」の両面を2枚のアルバムを通して描いているのです。
エイミーが残した言葉をエルマは音楽として食べて、それを原動力にして旅を続けています。
それもエイミーのことしか見えない、考えられないほどに想いながら、ただ彷徨うように旅を続けています。
あの丘の前に君がいる
その向こうには何が見える
言葉ばかりが口を伝う
何も知らないまま生きていたんだ
それだけなんだ
今でも、エイミー
あの丘の前に君がいるかも知れない。
その向こうには何が見えるだろう。
歌だけはたくさん口から出てくる。
何も知らないまま僕は生きていた。
今でもそうなんだよ、エイミー。
辿り着いた丘にもしかしたら君がいるかも知れないという淡い期待を抱いています。
しかし、エルマは丘の向こうはどうなっているのだろうと気にしていることから、旅がまだ続くこともエルマは覚悟しているということが伺えます。
そんな状況でも、とにかく曲だけはたくさん出来上がって呼吸をするように口から出てきます。
旅をするまではエイミーがどんな気持ちで最期を迎えたのかということを何も知りませんでした。
何故こうなってしまったのか、もっと何かしてあげられたのではないかという悲痛な気持ちと後悔が抑えられません。
そして最後には「エイミー」とその名を悲痛な気持ちで叫びました。
まとめ
アルバムを通してエイミーの足跡を辿るエルマのことが語られています。
この楽曲では、エルマが旅に出て彼の訪れた先々を自身も訪れ作曲することとなった動機や、これからも旅が続くことへの覚悟が語られる重要な曲となっていましたね。