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【BUMP OF CHICKEN/カルマ】の歌詞の意味を徹底解釈 | 人間の業とはどう言ったものなのか

編集: ひいらぎ最終更新: 2020/9/19

目次
カルマという曲名の意味を考察
カルマの歌詞の意味を徹底解釈
1番
2番

カルマという曲名の意味を考察


カルマとは一体どう言った意味でしょうか。

カルマと聞けば「業」と瞬時に脳内変換されます。業とは輪廻転生と密接に関連しており、行為や結果をともなう行為という意味があります。そこから転じて輪廻転生時に来世にまで引き継がれる現象として解釈されています。

人間のカルマとは一体どう言ったものなのか。歌詞の意味を考察して行きましょう。


カルマの歌詞の意味を徹底解釈

1番

ガラス玉ひとつ 落とされた 追いかけてもうひとつ落っこちた
ひとつ分の陽だまりに ひとつだけ残ってる


心臓が始まった時 嫌でも人は場所を取る
奪われない様に 守り続けてる

BUMP OF CHICKEN -カルマ

解釈ひとつの命が産み落とされた。その場所に、もうひとつの命が生まれ落ちた。
生き残ったのは片方の命だけ。
生まれた時から、人は必ず場所をとる
その場所を失わないための争いを続けている。

「ガラス玉」というのは、我々人間の存在の比喩でしょう。

私たちは一つの命としてこの世界に生み「落とされ」ますが、産み落とされたまさにその場所に、あとに続くように次の命が産み落とされます。私たちは生きるかぎり「場所を取」らねばなりません。

それはそのまま空間という意味でもそうですし、食べ物や住居、人々の手助けなども「場所を取」るということには含まれています。

 

汚さずに保ってきた手でも 汚れて見えた
記憶を疑う前に 記憶に疑われてる
BUMP OF CHICKEN -カルマ

解釈他人を傷つけることなく生きてきたつもりでも、気づかないうちに傷つけていた。
いつどこで?そう疑う前に、自分自身の本性が疑われる。

この世界は限りある世界です。食べ物も、住む場所も、衣服も、人との関係も限られています。「ひとつぶんの」場所に複数の命があれば、彼らは限られたリソースを奪い合うしかありません。食べ物も、衣服も、他人の愛情でさえも。

それは、原罪といってもいいくらいの人間の宿命です。どんなにきれいであろうとしても、他人を傷つけずに生きようとしても、知らないうちに誰かの場所を奪っている、人を蹴落としている。

僕らがふと自らの手に目をやるとき、その手には黒々とした「汚れ」が染みついているのです。いつの間に手を汚してしまったのか?いや、それを問う前に、自分という存在の本性が疑われます。


必ず僕らは出会うだろう 同じ鼓動の音を目印にして
ここに居るよ いつだって呼んでるから
くたびれた理由が重なって揺れる時
生まれた意味を知る
BUMP OF CHICKEN -カルマ

解釈必ず自分と大切な誰かはめぐり合うだろう。同じように抱えた罪の意識を互いの目印にして。
ここにいるよ、いつだってそのまだ見ぬだれかを必要としている。
罪に苛まれ、ぼろぼろになった体で互いに罪を打ち明けるとき
生まれた意味をしることになる

救いようのない罪の中で、それでも人間は生き続けるしかありません。

もがき苦しみながらも生き続ける中で、次第に人は他人を必要とします。同じ思いをした誰かに、これまでのことを打ち明けたいという思いが芽生えます。

ぼろぼろになった体で「同じ鼓動を目印に」大切な誰かと出会い、互いの生きた人生が互いにとっての支えとなって初めて、人はようやく「生まれた意味を知る」のです。


2番

存在が続く限り 仕方無いから場所を取る
ひとつ分の陽だまりに ふたつはちょっと入れない


ガラス玉ひとつ 落とされた 落ちた時 何か弾き出した
奪い取った場所で 光を浴びた

BUMP OF CHICKEN -カルマ

解釈生きている限り、誰でも場所を取らずにはいられない。
一人しか生きられない場所では、どちらかが追い出されなければならない。
命が産み落とされたとき、そこに先にいた誰かを追い出した。
誰かから奪い取ったその場所で、初めての光を浴びた。

2番の歌詞の冒頭も、生きることは奪うことであることを歌っています。それだけでなく、生まれ落ちたその瞬間がまさに、それまでそこにいた誰かの場所を奪った瞬間であるのだと語られます。

誰かがいた場所を奪い取って、私たちはこの世界に生まれ、はじめての「光を浴び」るのです。「場所をとる」ことが宿命づけられた罪であることがまた思い返されます。

 

数えた足跡など 気付けば数字でしかない
知らなきゃいけないことは どうやら1と0の間
BUMP OF CHICKEN -カルマ

解釈生きて、経験や年齢を重ねてきた。しかしそのことは、自分の生きる意味をしることには役立たない。むしろそれを知るためには、自分が無から誕生したというまさにその瞬間の不思議を考えなければならない。

私たちは日々を積み重ね、年齢を数え、経験の数を数えます。

しかしそれを何度繰り返したところで、それは無機質な「数字」にすぎません。数えるという儀礼を重ねることによっては、人生の本質にはたどり着けないのです。

むしろ、最も不思議なことは、生まれたその瞬間に、何もなかったところに、一つの命が誕生したことです。自分はどうして生まれたのか、何のために生きているのか。0から1になった瞬間。その無限に小さな極限の中に、その答えは隠れているのです。

 

初めて僕らは出会うだろう 同じ悲鳴の旗を目印にして
忘れないで いつだって呼んでるから
重ねた理由を 二人で埋める時
約束が交わされる
BUMP OF CHICKEN -カルマ

解釈自分の生まれた意味が分からないという心の悲鳴を目印に僕と大切な誰かは出会うだろう。
忘れないで、いつだってまだ見ぬあなたを呼んでいる。
互いなりの答えを重ねあい、欠けていた場所を補い合うとき
ともに生きていく約束は交わされる

なぜ私たちは生きているのか。なぜ私の手は汚れているのか。なぜ奪い続けながらなおも生き続けなければならないのか。

わたしたちはそれを問い、心は「悲鳴」を上げます。その絶叫を押し殺しながら、私たちは生き続け、やがて同じ思いを抱くだれかと出会うのです。なぜ、なぜ、と問いを繰り返してきた、その答えを、「理由」を互いに分かち合うとき、お互いが互いの鏡になって互いの姿を映し出すという「約束」が交わされます。


鏡なんだ 僕ら互いに
それぞれのカルマを 映す為の
汚れた手と手で 触りあって
形が解る
BUMP OF CHICKEN -カルマ

解釈僕とほかの人は互いの姿を映す鏡だ
生きる意味と、罪とを映し出すための。
罪で汚れた手で互いに触りあって初めて
自分という形が分かる

人は一人で生きることはできない、とよく言われます。

その一つの意味として、自分の存在の理由は自分の中にはないということがあります。

難しい哲学の話になりますが、私たちは自己という存在を認識するために、他者という鏡を用いるしかありません。他人と自分は似ている、けれども自分は他人ではない、ということが自分である、ということの証明になるのです。

尾崎豊という人は「本当の自分」を探し続けたひとでしたが、それが自分の中にあると考えていました。彼の人生はそれを突き詰め続けた人生でしたが、結局その答えは見つからなかったのだと思います。

さて、カルマの歌詞の話に戻れば、「鏡なんだ 僕ら互いに それぞれの カルマを映すための」という部分がまさにそのことを言っています。罪で「汚れた手」でお互いを触りあい、私たちは自分の形を想像します。自分とは何か、どうして生きているか、その答えにようやくたどり着くのです。

 

一人分の陽だまりに 僕らは居る
忘れないで いつだって呼んでるから 同じガラス玉の内側のほうから
そうさ 必ず僕らは出会うだろう 沈めた理由に十字架を建てる時
約束は果たされる
僕らはひとつになる
BUMP OF CHICKEN -カルマ

解釈たった一人しか生きていけない自分の場所で、僕たちはそれぞれ生きている。
忘れないで、いつだってあなたを読んでいるから。自分というガラス玉の内側から
そうさ、自分と大切な誰かは必ず出会うだろう。罪を心の奥底に沈め、もう思い出さないようにと十字架を立てるとき、僕と大切な人が自分らしく生きていくという約束が果たされる
僕らは一人の人間として生きていく。

ぼんやりとしていた自分という形が、そこでようやくはっきりした輪郭を得ます。

私たちは一人の人間として、ほかならぬ今、かつて誰かがいたこの場所に息づいているということです。同じ思いの誰かと出会うとき、互いのピースを補い合うことで、私たちは自分という一つの絵画を完成させます。

互いを映し出す鏡になるという約束はここでようやく果たされ、私たちはひとつの自分であることができるようになるのです。


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