【ヨルシカ/ノーチラス】の歌詞の意味を徹底解釈 | エルマとエイミーの最後の歌に涙が止まらない!
編集: ひいらぎ最終更新: 2020/9/19
はじめに
筆者は、自分の頭で一から考察したいため、あえてヨルシカ1st アルバムの「手紙」、2ndアルバムの日記を見ておりません。そのため、公式の物語の背景とは異なる場合があります。当サイトの記事は物語の一つとして楽しんでいただくよう、お願いいたします。
ノーチラスという曲名の意味を考察
ノーチラス(ノーティラス)とは、ギリシア語で水夫または船舶という意味ですが、一体どういった意味で曲名として使われているのでしょうか。
まずは、ヨルシカの公式ツイッターでノーチラスの意味について書かれていましたので、ご紹介します。
ヨルシカ - ノーチラス
— ナブナn-buna (@nabuna2) August 27, 2019
8/28発売のアルバムから最後の一曲。
題はジュールヴェルヌの海底二万マイルに出る潜水艦、ノーチラス号からの引用。
眠りからの目覚めと深海から浮上するそれのメタファー。https://t.co/PI2DOFOXfh
「ノーチラス」とはジュールヴェルヌの海底二万マイルに出る潜水艦、ノーチラス号から取られているようです。
では、「ジュールヴェルヌの海底二万マイル」という作品はどのような作品なのでしょうか?Wikipediaに概要がありましたので、一部引用します。
この物語は、ネモ船長という謎の人物により、極秘裏に建造された新鋭潜水艦、ノーチラス号(オウムガイの意)の冒険譚である。
ノーチラス号の冒険。。。この冒険というのが、MVで描写されているエイミーがいる海(「だから僕は音楽を辞めた」の2:32以降でエイミーが深海を歩く描写があるため)に、エルマがエイミーを見つけに行くということなのではないでしょうか。
つまり、「ノーチラス」とは、「エルマのことである」と考察しがちですが違くて、エルマのエイミーへの想いや情熱を表現して、「ノーチラス」と曲名にしたのではないでしょうか。
では、曲名の考察はこの辺にしておいて、歌詞の考察に移りましょう。
※他過去作との関連性について
n-bunaさんのツイートの「深海」という言葉と、「冒険譚」という言葉から、「ウミユリ海底譚」を思い出してしまいそうですが、ヨルシカのワンマン・ライブツアー「月光」では、過去曲は一切やらないとn-bunaさんが公言していますし、「ウミユリ海底譚」とのつながりや、他過去作との繋がりはないと考えるべきだと思います。
ノーチラスの歌詞の意味を徹底解釈
1番
時計が鳴ったからやっと眼を覚ました
昨日の風邪がちょっと嘘みたいだ
出かけようにも、あぁ、予報が雨模様だ
どうせ出ないのは夜が明けないから
朝、目覚まし時計がなって目を覚ます。
昨日あれだけ具合が悪かったはずなのにいつも以上に体が軽い。
せっかくだから出かけようと思っても、天気が悪いからと理由をつけて出かけるのをやめてしまう。
本当は、心が晴れないからなのに。
「昨日の風邪がちょっと嘘みたい」という歌詞。この歌詞は、夜になるとエイミーを失ったという事実で気分が落ち込んでしまうエルマが朝になると気分の落ち込みが収まるということを表現している歌詞なのでしょう。
この歌詞のように「夜」という単語は1stアルバム「だから僕は音楽を辞めた」と2ndアルバム「エルマ」を詳しく理解する上で非常に重要になってきます。注目して見ていきましょう。
さよならの速さで顔を上げて、
いつかやっと夜が明けたら
もう眼を覚まして 見て
寝ぼけまなこの君を何度だって描いているから
いつのまにか君がいなくなったように、早く早く
君がいなくなったことを受け入れたら
君を思い出として見ることができるから。
MVを見る限り、この曲はエイミーの最期にいた地にエルマが赴き、エルマの死を悲しむというコンセプトの歌です。
なので、「さよならの速さで顔を上げて」という歌詞の、さよならの速さというのは、エルマの前からエイミーがいなくなってから亡くなるまでの速さと解釈できます。
また、「一年だ、この一年が僕の一生だ。」とMVで出てくるので、エイミーがエルマの前から姿を消してから亡くなるまでの期間は1年間であると考えられます。
2番
傘を出してやっと外に出てみようと決めたはいいけど、靴を捨てたんだっけ
裸足のままなんて度胸もある訳がないや
どうでもいいかな 何がしたいんだろう
外は雨だから傘をさして外に出てみようと思ったけれど、靴は捨ててしまったんだっけ。
裸足のまま外に出る勇気なんてないや。
もうどうでもいいや。
ここの歌詞。解釈で書いたようにそのまま解釈して歌詞の意味とすることもできますが、「傘を出して」という歌詞を、外に出ない理由をつけるのを辞めたと解釈し、「靴」を外に出るための物理的に必要なもの(=エイミーを思い出にする覚悟)と解釈すると、エルマはこの歌詞の以前に、靴を捨てることで外に出る(≒前に進む)ことを放棄したと考察できます。
つまり、ここの歌詞で「エルマがやっと外に出てエイミーに会いに行く勇気が出た」ということを表現しているのだと思います。
このままの速さで今日を泳いで、
君にやっと手が触れたら
もう目を覚まして 見て
寝ぼけまなこの君を忘れたって覚えているから
今日を精一杯過ごして、君と出会えたら
君という存在が朧げになって”思い出”になってしまっても
その思い出だけは覚えているから。
この歌詞はエルマとエイミーのどちらの目線で歌われているのでしょうか?
どちらの目線でも成り立ってしまうので、悩ましいですよね。
皆さんはどちらの目線だと思いますか?