【ヨルシカ/雨とカプチーノ】の歌詞の意味を徹底解釈 | 白の花と黒の涙。決して交わることのない思いが描くストーリー
編集: ひいらぎ最終更新: 2020/9/19
雨とカプチーノという曲名の意味を考察
「雨とカプチーノ」とは、一体どういった意味なのでしょうか?
まず「雨」という言葉。普通に天気を表す言葉ですが、この言葉は「エルマの想い」を表現しているのだと思います。
エイミーと別れ、悲しみにくれ泣いている「エルマ」をn-bunaさんは「雨」と表現したのでしょう。
次に「カプチーノ」という言葉。
カプチーノとは、イタリアで好まれているコーヒーの飲み方の1つで、陶器のコーヒーカップに注いだエスプレッソにクリーム状に泡立てた牛乳を加えたコーヒーのことです。
この言葉から見えてくるものとは、黒と白の対比なのでしょう。
MVを見ても分かる通り、エルマとエイミーの着てる服が白と黒で、これは鍵盤の色と一緒なんですよね。
白鍵と黒鍵、お互いがあるからこそ「鍵盤」という素晴らしいものになるけれど、決して片方だけでは成り立たないし混ざることも無いわけです。
このように、エルマとエイミーも同じで、エルマがエイミーの生き方や口調を真似したとしても、エイミーがエルマの真似をしたとしても、お互いの色には決してなれなくて、灰色になっちゃうのだと思います。
そんな様子をn-bunaさんは「カプチーノ」と表現したのだと思います。
では、早速歌詞の意味を解釈していきましょう。
雨とカプチーノの歌詞の意味を徹底解釈
1番
灰色に白んだ言葉はカプチーノみたいな色してる
言い訳はいいよ 窓辺に置いてきて
数え切れないよ
白色と黒色が混ざったような、まだ決断しきれていない言葉はいらない。
言い訳はいいから、本音で話そう?
「灰色に白んだ言葉」とは「言い訳」を表現しているのだと思います。
では、一体「言い訳」とはどんな言い訳なのでしょうか。
少し考えて見ましたが、この曲が収録されている「エルマ」というアルバムがエルマ目線で書かれているとすると、
おそらく「エイミーがエルマと合わないという言い訳」なのでは無いでしょうか。
何かしら言い訳を見つけてはエルマに合わない理由にしている「エイミー」に向かって歌っているのでしょうね。
灰色に白んだ心はカプチーノみたいな色してる
言い訳はいいよ 呷ろうカプチーノ
戯けた振りして
君は白色と黒色が混ざったような、心をしているね。
言い訳はいいから、いい加減言い訳はやめよう?
ふざけたふりなんかしないで。
呷ろう(あおろう)とは、酒や毒などを一気に飲む。というような意味があります。
つまり、「呷ろうカプチーノ」とは、エイミーに「カプチーノを一気に飲んでしまおう?」と進めているわけです。
この曲のカプチーノとは言い訳の代名詞であるわけですから、「呷ろうカプチーノ」の解釈は「いい加減言い訳はやめよう?」としています。
さぁ揺蕩うように雨流れ
僕らに嵐す花に溺れ
君が褪せないような思い出を
どうか、どうか、どうか君が溢れないように
心が動揺するように涙を流そう。
僕らを惑わす花に溺れて
君を忘れないような思い出を
君がどうにかなってしまう前に作りたい
揺蕩う(たゆたう)とは、心が動揺する。ためらう。という意味があります。
この歌詞はなんとも言えない歌詞ですね。「ぐるぐるグルグル」「ふにゃふにゃ」したような、なんだかふわふわしたような気分になります。
エルマとエイミーの関係性を、このふわふわしたような気持ちや、なんだか脆く感じる感じで表現しているのかもしれませんね。
2番
波待つ海岸 紅夕差す日
窓に反射して
八月のヴィスビー 潮騒
待ちぼうけ 海風一つで
「波待つ海岸」「紅夕差す日」「波が押し寄せる音」
八月のヴィスビーの海岸で待ちぼうけた思い出。
「ヴィスビー」とはスウェーデン ゴットランド島の都市の「ビスビュー」のことだと思います。
エルマとエイミーの物語の中でもスウェーデンの思い出の描写が出てきますし、間違い無いでしょう。
また、潮騒(しおさい)とは、潮が満ちる時に波が発する音のことをさします。
この部分は、エルマのエイミーとの思い出の回想シーンなのでしょうか。それとも、「エルマが来るのを今も待っている」ということなのでしょうか。
未だ真相はわかりませんが、ヨルシカのアルバム「エルマ」が発売されたらわかるのかもしれませんね。
夏泳いだ花の白さ、宵の雨
流る夜に溺れ
誰も褪せないような花一つ
どうか、どうか、どうか胸の内側に挿して
夏の水の上を泳ぐような花とその花を濡らす涙。
流れ、溜まっていく涙に溺れる。
誰も忘れられないような思い出を
どうか私の胸にさしてほしい。
「誰も褪せないような花」という歌詞。一番では「君が褪せないような思い出」となっていますから、花=思い出ということなのでしょう。
つまり、「夏泳いだ花の白さ、宵の雨 流る夜に溺れ」という歌詞は、エルマの思い出(=花)を白とし、宵の雨(=エイミーが流す涙)を黒とすると、
「エルマの思い出はエイミーの涙では流され、決して混ざることなく溺れてしまう(=エイミーが泣いていては二人は決して幸せになれない)」ということを表現しているのだと思います。
ずっとおかしいんだ
生き方一つ教えてほしいだけ
払えるものなんて僕にはもうないけど
何も答えられないなら言葉一つでもいいよ
わからないよ
本当にわかんないんだよ
最近の私はどこかおかしいんだ。
どうか私に生き方を教えてほしい。
君にしてあげられることはもう無いけれど
何も教えてくれないなら”言葉をかけてくれるだけでもいいんだ”
わからないよ。
この部分がエルマの心の奥底の想いなのでしょうか。
エイミーと別れ、生きる意味がわからなくなってしまったエルマの悲痛の叫びなのかもしれませんね。
さぁ揺蕩うように雨流れ
僕らに嵐す花に溺れ
君が褪せないように書く詩を
どうか、どうか、どうか今も忘れないように
心が動揺するように涙を流そう。
僕らを惑わす花に溺れて
君を忘れないように書く詩(歌)を
どうか忘れないでほしい。
前作のアルバム「だから僕は音楽をやめた」ではエイミーがエルマに送る「手紙」のようなものでしたが、
今回の新作アルバム「エルマ」は、エルマがエイミーに送る「手紙」のようなものなのかもしれませんね。
そして、君を忘れないように書く詩というのが「エルマ」というアルバムに収録される曲たちであると。
そう考えると、この曲たちはエイミーが送ってきた手紙の返答でもあるのかもしれませんね。
また一つ夏が終わって、花一つを胸に抱いて、
流る目蓋の裏で
君が褪せないようにこの詩を
どうか、どうか君が溢れないように
また夏が終わって、季節が巡る。
思い出ひとつ胸に抱いて
涙で潤んだ瞳を覆うまぶたの裏で
君を忘れさせないようにこの詩をおくりたい。
「また一つ夏が終わって」という歌詞。すごいエモい歌詞ですね。
「一つ」と歌詞に入れることで、何年も何年もエルマとエイミーは会えていないことが推測できます。
まるで七夕の織姫 彦星のようでなんだか切なくなってきますね。
最後の解釈を「おくりたい」としましたが、ここの部分をどうするかで30分くらい悩みました。
「書きたい」だとか、「作りたい」とかだとなんだか安っぽい気がしますし、難しいですよね。
皆さんもこの部分の解釈を考えてみてください。